2009年12月22日火曜日

生命政治への挑戦状----村上春樹『1Q84』を読む

 村上春樹の『1Q84』を読んだ。前作にうんざりした私は、どんなベストセラーであろうと、じつは読む気はなかったのだが、友人が貸してくれたのでトライしてみることにした。
 一読して感じたのは、これは作者にとって、ちょうど三島由紀夫の『豊穣の海』に類する位置にある作品だということである。つまりこれはライフワークであり、これまでの彼のモチーフがすべて含まれていて、しかもそれを一定の世界観のうちに位置づけようという意図がうかがわれる。すべてのエピソードや引用や比喩は、どんなささいなものであれ、作品全体のうちに巧妙に仕組まれ、建築にたとえるならば、それぞれドアや窓や屋根を構成し、それこそ釘一本まで計算されて設計されている。
 これまで村上春樹は、都会生活者の空白感をくりかえしかたちをかえて描いてきた。彼の作品は、空白のロマンスであり、空白をめぐる冒険であった。しかしそれは、私にとって、一度だって私自身の空白をみたすものではなかった。言葉をかえていえば、私の空白と彼のそれは感応するところがない。しかも彼の文体は、翻訳小説のようであり、私には日本語としての美しさを感じられない。
 サルトルは小説の文体について、言葉は事物を指示するだけでその後は消えてしまうような透明なものであるべきだ、と語っている。だとすれば、村上の文体は理想的なものかもしれぬ。そしてこの小説には、その威力が如何なく発揮されていることを認めざるをえない。
 これは伝奇小説であり、また純愛小説である。反時代的宣言でもある。謎の中心をになう「リトルピープル」という未知の存在は、DNAを人称化した比喩であり、クローンをうみだし、人間の運命をある程度まで決定する。青豆と天吾というふたりの主人公は、それぞれ空白感をかかえながら、その定められた宿命に懸命に抵抗し、現代と対峙し、人間的自由をもとめてたたかう。そういう小説である。
 ここに示されている基本的な観念は、人がある決定的な行動をとるとき、世界は一変し、しかしそれにもかかわらず、世界それ自体は何も変わってはいない、というある種の二律背反的ヴィジョンだ。それは私もつねづね感じていることで、私ははじめて、この作者にふかい共感を得た。
 その意味で、この小説は、現代文学のうちでも稀有な達成をなしとげていると認められる。傑作といっていい。行間には、作者自身の心の闇がつよく脈打っている。
 とはいえ、その堅牢なファサードがどこかうすら寒く感じられるのは私だけだろうか。正面から見ると堂々たる建築なのだが、側面にまわってみると、意外と奥行きがない。いいかえれば、世界を構築するつもりが、結局、社会的な広がりは得られず、気づいてみると、自己の内部の堂々めぐりだった。そんな印象がある。
 途中はおもしろく、一気に読んだが、第二巻の最後まで読み終わったとき、私は正直いって、かるい徒労感を得た。この先を書きつづける予定があるのかどうか知らないが、期待をこめて、続編の刊行をのぞみたい。