2009年12月22日火曜日

可哀そうなビエンナーレ

 宇部ビエンナーレの関係者から、彫刻が市民に愛されるためにはどうしたらいいだろう、と相談をうけた。
 そんなの、答えはかんたんだ。もっと市民に愛される彫刻作品をたくさん設置すればいいのである。しかしそれができぬところに、この問題解決のむつかしさがある。おおかたの市民は、正直な話、賞をうけた作品のどれもが不可解で奇妙な構築物だとしかおもえないのだろう。とすれば、それらが街のあちこちに置かれたところで、親しみなどおぼえるはずがない。
 こんな話がある。ある男がショッピングセンターで食料品を買った帰りに、近くのギャラリーに寄ってみた。たまたま、現代彫刻のコンテストが開催されていた。かれはギャラリーのすみに両手いっぱいに抱えていた食料品をおき、作品をみてまわることにした。便器に活けられた色とりどりの花とか、三色にペイントされてピアノの上につながれた猿とか、そういったたぐいの「彫刻」がところせましと陳列されている。そのうち、大賞がきまったらしく、そこに人だかりができた。「このみごとな作品の作者は誰だろう?」「紙袋からさりげなくとびだしている大根とズッキーニ。何気なくおかれた牛乳パックとの微妙なバランスの関係性は美の極致といえる」男がのぞきこんでみると、受賞作はかれがさきほど置いた食料品だった…。
 そもそも現代芸術というものは、彫刻にかぎらず、文学でも絵画でも音楽でも芝居でも、「訳がわからない」というところにその特徴がある。
 というのも、近代以降、芸術は、純粋と自立性の確立を追求して発展してきたからだ。かつて権力者や教会のために制作してきた芸術家たちは、市民のために作品を生みだすようになり、そしてさらにそこからの脱却をめざした。「芸術のための芸術」ということが主張される。誰かを楽しませるためではなく、芸術それ自身での自己完結がはかられたのだ。たとえば茶碗は本来お茶を喫する道具なのだが、純粋芸術ということになれば、お茶を飲むという目的は排除され、茶碗そのものが目的化されるのである。いまや、お茶を飲めない茶碗こそがアートなのだ。
 その最たるものが、パフォーマンスとよばれるものである。私も学生のころ、ヨーゼフ・ボイスの展覧会を見にいったことがある。部屋に入ると真中にテレビがあって、ビデオが流されている。見てみると、檻のなかにボイス自身と小型の狼のような動物がいて、たがいに意識しあいながら、うろうろしている。ただそれだけの映像がえんえんとつづく。たしかタイトルは、「私はコヨーテが好き、コヨーテも私が好き」だったと記憶している。といって、両者にとりわけムツゴロウさんのような人間的交流らしきものがあるわけでもないのだ。私は面白がってみたが、つまりは私も若かったということなのだろう。
 ボイスにかぎらず、従来の芸術にみられたような人間的形象を破壊するというところに、現代芸術の出発点はある。かれらは出来栄えよりもむしろ、その出発点に重きをおいている。だから訳がわからないのだ。のみならず、ポスト・モダンという時代に突入して、さらに事態は混迷の度をくわえている。いまでは芸術は、ミケランジェロのような荘重なものではなく、とるに足らない遊戯と化した。伝統的な価値観からすれば、それはジョークとしかみなされないだろう。
 悪い冗談からも素晴らしい作品がうみだされないとはかぎらないと、私は希望をもっている。しかしそれには、まだ時間がかかりそうだ。しかも悪いことに、彫刻は芸術のなかでも、もっとも不人気なジャンルなのだ。