2009年12月22日火曜日

生命政治への挑戦状----村上春樹『1Q84』を読む

 村上春樹の『1Q84』を読んだ。前作にうんざりした私は、どんなベストセラーであろうと、じつは読む気はなかったのだが、友人が貸してくれたのでトライしてみることにした。
 一読して感じたのは、これは作者にとって、ちょうど三島由紀夫の『豊穣の海』に類する位置にある作品だということである。つまりこれはライフワークであり、これまでの彼のモチーフがすべて含まれていて、しかもそれを一定の世界観のうちに位置づけようという意図がうかがわれる。すべてのエピソードや引用や比喩は、どんなささいなものであれ、作品全体のうちに巧妙に仕組まれ、建築にたとえるならば、それぞれドアや窓や屋根を構成し、それこそ釘一本まで計算されて設計されている。
 これまで村上春樹は、都会生活者の空白感をくりかえしかたちをかえて描いてきた。彼の作品は、空白のロマンスであり、空白をめぐる冒険であった。しかしそれは、私にとって、一度だって私自身の空白をみたすものではなかった。言葉をかえていえば、私の空白と彼のそれは感応するところがない。しかも彼の文体は、翻訳小説のようであり、私には日本語としての美しさを感じられない。
 サルトルは小説の文体について、言葉は事物を指示するだけでその後は消えてしまうような透明なものであるべきだ、と語っている。だとすれば、村上の文体は理想的なものかもしれぬ。そしてこの小説には、その威力が如何なく発揮されていることを認めざるをえない。
 これは伝奇小説であり、また純愛小説である。反時代的宣言でもある。謎の中心をになう「リトルピープル」という未知の存在は、DNAを人称化した比喩であり、クローンをうみだし、人間の運命をある程度まで決定する。青豆と天吾というふたりの主人公は、それぞれ空白感をかかえながら、その定められた宿命に懸命に抵抗し、現代と対峙し、人間的自由をもとめてたたかう。そういう小説である。
 ここに示されている基本的な観念は、人がある決定的な行動をとるとき、世界は一変し、しかしそれにもかかわらず、世界それ自体は何も変わってはいない、というある種の二律背反的ヴィジョンだ。それは私もつねづね感じていることで、私ははじめて、この作者にふかい共感を得た。
 その意味で、この小説は、現代文学のうちでも稀有な達成をなしとげていると認められる。傑作といっていい。行間には、作者自身の心の闇がつよく脈打っている。
 とはいえ、その堅牢なファサードがどこかうすら寒く感じられるのは私だけだろうか。正面から見ると堂々たる建築なのだが、側面にまわってみると、意外と奥行きがない。いいかえれば、世界を構築するつもりが、結局、社会的な広がりは得られず、気づいてみると、自己の内部の堂々めぐりだった。そんな印象がある。
 途中はおもしろく、一気に読んだが、第二巻の最後まで読み終わったとき、私は正直いって、かるい徒労感を得た。この先を書きつづける予定があるのかどうか知らないが、期待をこめて、続編の刊行をのぞみたい。

可哀そうなビエンナーレ

 宇部ビエンナーレの関係者から、彫刻が市民に愛されるためにはどうしたらいいだろう、と相談をうけた。
 そんなの、答えはかんたんだ。もっと市民に愛される彫刻作品をたくさん設置すればいいのである。しかしそれができぬところに、この問題解決のむつかしさがある。おおかたの市民は、正直な話、賞をうけた作品のどれもが不可解で奇妙な構築物だとしかおもえないのだろう。とすれば、それらが街のあちこちに置かれたところで、親しみなどおぼえるはずがない。
 こんな話がある。ある男がショッピングセンターで食料品を買った帰りに、近くのギャラリーに寄ってみた。たまたま、現代彫刻のコンテストが開催されていた。かれはギャラリーのすみに両手いっぱいに抱えていた食料品をおき、作品をみてまわることにした。便器に活けられた色とりどりの花とか、三色にペイントされてピアノの上につながれた猿とか、そういったたぐいの「彫刻」がところせましと陳列されている。そのうち、大賞がきまったらしく、そこに人だかりができた。「このみごとな作品の作者は誰だろう?」「紙袋からさりげなくとびだしている大根とズッキーニ。何気なくおかれた牛乳パックとの微妙なバランスの関係性は美の極致といえる」男がのぞきこんでみると、受賞作はかれがさきほど置いた食料品だった…。
 そもそも現代芸術というものは、彫刻にかぎらず、文学でも絵画でも音楽でも芝居でも、「訳がわからない」というところにその特徴がある。
 というのも、近代以降、芸術は、純粋と自立性の確立を追求して発展してきたからだ。かつて権力者や教会のために制作してきた芸術家たちは、市民のために作品を生みだすようになり、そしてさらにそこからの脱却をめざした。「芸術のための芸術」ということが主張される。誰かを楽しませるためではなく、芸術それ自身での自己完結がはかられたのだ。たとえば茶碗は本来お茶を喫する道具なのだが、純粋芸術ということになれば、お茶を飲むという目的は排除され、茶碗そのものが目的化されるのである。いまや、お茶を飲めない茶碗こそがアートなのだ。
 その最たるものが、パフォーマンスとよばれるものである。私も学生のころ、ヨーゼフ・ボイスの展覧会を見にいったことがある。部屋に入ると真中にテレビがあって、ビデオが流されている。見てみると、檻のなかにボイス自身と小型の狼のような動物がいて、たがいに意識しあいながら、うろうろしている。ただそれだけの映像がえんえんとつづく。たしかタイトルは、「私はコヨーテが好き、コヨーテも私が好き」だったと記憶している。といって、両者にとりわけムツゴロウさんのような人間的交流らしきものがあるわけでもないのだ。私は面白がってみたが、つまりは私も若かったということなのだろう。
 ボイスにかぎらず、従来の芸術にみられたような人間的形象を破壊するというところに、現代芸術の出発点はある。かれらは出来栄えよりもむしろ、その出発点に重きをおいている。だから訳がわからないのだ。のみならず、ポスト・モダンという時代に突入して、さらに事態は混迷の度をくわえている。いまでは芸術は、ミケランジェロのような荘重なものではなく、とるに足らない遊戯と化した。伝統的な価値観からすれば、それはジョークとしかみなされないだろう。
 悪い冗談からも素晴らしい作品がうみだされないとはかぎらないと、私は希望をもっている。しかしそれには、まだ時間がかかりそうだ。しかも悪いことに、彫刻は芸術のなかでも、もっとも不人気なジャンルなのだ。

政権のたそがれ

 今回は裁判員制度について書く予定だったが、テレビで、麻生・鳩山党首討論をみて、気が変わった。
 新聞など、おおかたの評価は、両者痛み分け、という論調だが、私にいわせれば、圧勝とまでいかないが、あきらかに鳩山さんの勝利に終わったと評価する。二人とも、さいきんの言葉でいうセレブで、そしてそれゆえの共通の弱点を感じるが、しかし鳩山さんはこれまでの経歴がプラスとなって、前回代表をつとめたときよりも、ずいぶん頼もしさをましたように見受ける。
 相変わらず、「友愛」などという政治家としては生ぬるい理想を掲げているが、たとえば、「いまの官僚支配の政治を変えていこうではありませんか」
というような語りかけのスタイルは、その中身はべつにしても、彼のいう友愛が必ずしも空理ではなく、堂に入ってきたという感じをあたえる。全体としても、育ちのよい素直さがそのまま率直な所信表明になっていて、好印象だった。
 いっぽう、麻生さんの方は、私としては期待を裏切られた感がある。言葉のうちに、ユーモアを欠いた皮肉の毒がふくまれている、彼の口もとに似た、ひね曲がった話法がくりかえされた。それは国家のリーダーにふさわしいものではない。しかも、「国民最大の関心事である小沢前代表と西松建設の問題…(略)」という発言には、まったく失望した。誰が考えても、国民の最大の関心事は、景気対策、年金問題、行政改革等々、これからの日本をどうするのかということ以外にない。西松問題なんて、じつのところ、どうでもいい話だ。
 与党は、岡田さんではなく鳩山さんが党首になって、ほっと胸をなでおろしていたふしがある。西松事件以来の支持率上昇を背景に、小沢傀儡体制だという批判もできるし、なにより支持率は上がるまいとタカをくくっていたようだ。しかし蓋を開けてみると、鳩山支持は麻生首相を上回った。
 しかも悪いことに、麻生首相が厚労省分割案を示唆。たしかに、年金、医療、介護、少子化、雇用、インフルエンザ、薬害など、厚労省の抱える問題は大きく、多岐にわたっている。一人の大臣では手におえないという議論も解らなくはない。
 だがそうすると、行政のスリム化というこれまでの流れと逆行する。さらには、麻生さんのいつもの癖で、側近にすら根回しを欠いているために、寝耳に水の与党内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。足元の閣僚内からも異論が噴出。当の桝添厚労相でさえ、分割案には慎重な姿勢を示している。河村官房長官もたいへんだなと同情を禁じえない。それゆえ、わずか二週間で分割案をひっこめた。ふたたび「ぶれた」というかたちである。
 厚労省所管の保育所と文科省所管の幼稚園を一元化するという提案にしても、意図は悪くないのだが、とにかくやりかたがまずい。というか、その行動に表れているのは、リーダーシップなどということを問題とする以前の、子供のような幼さである。独裁権力を握っているわけでもないのに、命令一下、すべて思うままにいくはずがない。いくら目的が正しくても、方法の選択を間違えば、目的それ自体をも破壊しかねない、というのは大人の常識である。そもそも、党内基盤が弱い上に、国民の圧倒的支持があるわけでもないのだ。これまで何度も同じやりくちで失敗してきたのに、この人は学習能力がないのだろうか。
 これでは、上昇基調にあった内閣支持率も下降に転じるほかあるまい。したがって解散は任期満了ぎりぎりまで先延ばしにされる。とすれば、麻生首相は切り札の解散権を失ったも同然であり、この先ますます身動きがとれなくなるであろう。のこされたチャンスは、依然として、「敵失」という僥倖だけである。

2009年4月25日土曜日

あれかこれか、それが疑問だ

 古来、二つの精神的態度がある。 ロマン主義と古典主義と、かりにいっておこう。前者は人間精神を信じ、その自由な発露を称揚する。後者は逆に、人格は厳しい教育・訓練を経てこそ完成するという態度に立つ。そして人類の歴史には、この二つの理念が交互にたちあらわれてくる。
 その意味で、市場原理主義とか「小さな政府」というのは、政治的・経済的ロマン主義といえよう。個人の利益追求の総体を、その自由な展開に任せてもなお、その都度、適切な調整が行われて、全体は結果的に最適化されるという信念が、この思想を支えている。だから、権力による規制やチェックをできるだけ排除することがもとめられる。
 しかし、今回の世界金融恐慌は明らかに、この経済的ロマン主義の過剰から帰結したものに相違ない。サブプライムローンやCDSは、個人の際限のない欲望の産み落とした悪魔の申し子である。オバマ新大統領は、施政方針演説において、経済危機は「短期的な利益を得るために規制を骨抜きにしたために起った」とのべ、金融安定化とビッグ3救済のために巨額の費用を投じると明言した。すなわち米国は、ロマン主義から古典主義へと転轍機を切換えたのだ。米国だけではない、世界各国が「大きな政府」へと政策を転換し、積極介入をすすめている。つまり、いま歴史は大きな転回をとげつつあるのだ。
 で、わが国はどうなのか。いうまでもなく、小泉改革路線がロマン派である。与党・自民党内ではそれを堅持しようとする勢力と、転換しようとする勢力が対立し、いまだにどっちつかずのあいまいな態度にとどまっている。それゆえ、集中的な経済対策を発動できず、景気浮揚は遅々として進まない。浮薄な権力闘争に淫し、歴史が見えないのである。
 それならば、民主党はどうか。小沢党首は元来、「小さな政府」をめざしてきた人である。さいきんはそれを転換しているようにも見えるが、いかにも上滑りで頼りない。それは民主党を束ねるための処世術なのかもしれぬが、その民主党自体、根本的な歴史意識の希薄は否めない。
 そもそも日本国がかかえる矛盾は、「小さな政府」をめざしたにもかかわらず、肥大化した官僚機構を温存し、実際には非効率な「大きな政府」であるというねじれ構造にある。優秀な官僚を使いこなせずに腐らせているのだ。
 したがって、来る総選挙において、各党のマニュフェストの第一に掲げられるべきは、この二つの立場のどちらをとるか明示することよりほかにない。さもなくば、われわれ国民は選択肢をあたえられないも同然である。
 少なくともいまの状況下では、強い政府のリーダーシップがもとめられている。国家の指導と介入により、迅速かつ大規模な経済対策をとるべきであり、いっぽうでは、国会と官僚機構の徹底的な再構築に即座に着手すべきなのだ。今回の危機の克服は、それなくしてはありえないし、またそのためには自らの歴史意識を更新する必要がある。各党の政治家諸氏はむろんのこと、われわれ国民もどっちつかずの態度は棄ててかかるべき時ではあるまいか。

小沢秘書逮捕の意味

 最初にことわっておくと、私は小沢支持者ではない。それどころか、しばしば彼の批判者をもって自ら任じている。しかしながら、今回ばかりは、小沢バッシングも度が過ぎるのではないかと思う。
 秘書が逮捕されたとき、私はてっきり、特捜部は贈収賄の証拠をにぎっているのだと考えていた。ところが小沢代表への事情聴取は見送られ、秘書の起訴は、政治資金規正法違反、おもに虚偽記載。そんなものは政界では日常茶飯事の「微罪」にすぎぬ。いままで逮捕された人はいないはずだ。のみならず、新聞で読むかぎり、それすら審議の余地がある。
 というのは、検察自身みとめているように、これは西松建設からの「迂回献金」であり、だとすれば、たとえ名目のみであれ、政治団体を通している以上、少なくとも企業の直接的な献金を禁じた政治資金規正法には抵触しない。いやないい方だが、マネー・ロンダリング済みということになる。
 特捜部は異例のコメントを発表。
「特定の建設業者から長年、多額の献金を受けていた事実を国民の目から覆い隠した重大事案で、看過できない」
 結局この起訴は、法律とはべつに、道義的な社会正義にもとづくといっているわけで、皮肉なことに、特捜部自身が、今回の逮捕劇における法的根拠の弱さを告白しているも同然だ。多額だから悪いという、小市民的正義感がその根底にある。が、それも口実で、民主党政権誕生を阻止して官僚機構を守るための国策捜査だという、うがった見方もできる。
 私は庶民の一人として、「巨悪を眠らせない」特捜部の活躍に期待するいっぽうで、目的のために手段はえらばぬということになれば、特捜部も巨悪に堕してしまうと危惧する。有罪か無罪かにかかわらず、起訴されたという事実は、それだけで被告に社会的制裁という結果をともなうのだ。それを承知で、社会的制裁を意識的に利用するとすれば、集団リンチないしは魔女裁判と少しもかわらぬ。だからこそ、検察による悪人の追及は、道義ではなく、あくまで法的な手続きによらねばならない。
 公平にみて、今回の特捜部の立件は、社会正義の理想を追求するあまりの勇み足に思える。大手マスコミは尻馬に乗って、特捜部のリークを鵜呑みにした小沢バッシングを展開。辞めろコールの大合唱である。社会の木鐸にしては、その機械的な無記名性はうす気味わるい。
 さて、当の小沢さんだが、私は今回の件で彼をみなおした。野党の党首でありながら、これだけの資金をあつめられるというのは特筆すべきことである。そのくらいでないと、「平成維新」など実現しはしない。実際の話、クリーンなんてものに価値はない。何かをなしとげてこその、価値である。とりわけ政治家の場合、少しくらいの悪を許容しても、それ以上の大きな寄与をすればそれでいい。残念だが、それが政治というものであり、もっといえば、人間存在そのものに根ざした矛盾がそこにある。 ただし、この場合も、選択した手段が、達成さるべき目的をこわすようなものであってはならないということである。

2009年2月2日月曜日

若者諸君に告ぐ、蟹工船ブームとはなにか

 小林多喜二の『蟹工船』が百七十万部を超える大ベストセラーとなっている。所得格差が広がり、ワーキングプアとよばれる階層が生じ、全労働者のうちで非正規雇用者が三分の二に達した現代日本の世相を反映したものであると、どの論説者ものべている。
『蟹工船』は、カムチャッカ沖でタラバ蟹を捕獲して缶詰をつくる船の労働者たちが、国家のためという美名の下、死と隣合わせの過酷な強制労働に使役される限界状況を小説にしたものである。彼らは何人もの仲間の死を前にして、組織をつくり団体交渉にのぞむ。しかし、味方だとばかり思っていた帝国海軍の兵士に鎮圧され、「俺たちには俺たちしか味方は無い」という事実に気づく、というのがその梗概である。ネットカフェ難民の諸君は、彼らは自分たちそのものだといっているそうである。
 私も学生のときに読んだが、蕪雑な文章とイデオロギー臭に辟易したおぼえがある。たとえばカムチャッカに漂着する場面があるのだが、そこは労働者の楽園であり(しかし具体的には何も書かれていない)、しかもなぜか中国人もいる。つまりソ連と中国共産党を理想化することによって、当時の日本を批判しているのだ。これは政治プロパガンダで、文学ではないと私は評価したし、その考えはいまも変わらない。その証拠に、イデオロギーの道具として動く登場人物は、どれも生きた人間の表情をもたされてはいない。
 私は自分の政治的立場ゆえに『蟹工船』に反発したのではない。あくまでそれは文学の本道ではないと考えたからだ。私は詩人なのだ。
 おなじころ、授業でオーウェルの『動物農場』を読んだ。動物たちが団結して革命を起し、人間の支配から脱するという寓話である。しかし革命が成功すると、ナポレオンという名の豚の独裁によって、人間支配のころよりも酷い労働と恐怖政治が始まる。反対者は処刑される。いうまでもなく、ナポレオンはスターリンの戯画であり、オーウェルは当時の共産主義を理想化する風潮に抵抗しているのである。これは第一級の文学であると、私は感動した。
 スターリンや毛沢東の夥しい粛清はもはや歴史的事実として確定している。けれども私は、オーウェルの政治的な先見の明に感動したのではない。動物農場にはボクサーという馬がいる。彼は善良ではあるが愚かである。農場が自分たちのものとなり、その維持のためにナポレオンは努力している。それなのにどうして悲惨な事態になったのか、考えても彼には理解できない。結局、「我々の中にどこかいけないところがあるんだ」と思い、以前にもまして骨身を惜しまず働き、ついに力つきる。ナポレオンは入院させると称し、ボクサーを廃馬堵殺業者に売ってしまう。
 ボクサーはたしかに愚かである。しかし彼は美しい。罪を他者に転嫁せず、自分の中にみる。不平をいわず、自分の力でできることに懸命に取り組む。いったい誰がボクサーの愚かさを指弾できるであろうか。
 政治とは、簡単にいえば、全体のためには部分の犠牲を強いる論理だ。資本主義だろうと共産主義だろうと、この点ではかわらない。どちらも欠点があり長所がある。つまり政治的価値は相対的なのである。
 しかしボクサーの美しさは普遍的なものである。いかなる時代であれ、人種であれ、政治体制であれ、彼の珠玉のような精神は万人の心をうつ。そして文学とはそういう理想を表現する芸術なのである。
 私はなにも不当な労働環境を擁護するものではない。しかし諸君、現世はいつも不公平なのだ。が、どんな非道な独裁者も我々の心の中にある宝石を奪うことはできない。何よりもその宝石を大切にしてもらいたいのである。この世はけっして金と権力だけではないのだ。

2009年1月29日木曜日

田母神論文騒動を斬る

 今日は元空幕長・田母神敏雄氏の懸賞論文の問題を論じてみよう。まず、文民統制の問題。結論からいって、自分の首をかけて発言する者を止めることはできない。それをやれば、思想統制であり言論弾圧である。我が国は全体主義国家ではない。即座に更迭された以上、文民統制はちゃんと機能しているのだ。
 にもかかわらず、文民統制への反抗だと騒いでいる人たちは、それを反戦の護符のように考えているようだが、「文民」がアテにならないのは社会保険庁をみるだけでも十分だろう。日露戦争から太平洋戦争にかけて、軍以上の主戦論を唱導したのは、いつも軍事に無知な文民だった。言葉の中身を考えずに、安っぽい正義をふりかざす。それは、いま無考えに文民統制を掲げる連中の精神性と何ら異なるものではない。内容のない言葉だけが踊っている。
 で、遅ればせながら、田母神論文を読んでみた。読後の感想は、拍子抜けの一語に尽きる。文民統制を揺るがすくらいだから、三島由紀夫ばりの憂国の檄文を私は想像していたのだ。
 細部にわたる批判や擁護が、新聞雑誌をにぎわせているが、私が問題にしたいのは、その主張の本質である。かんたんにいえば、当時は帝国主義の時代であり、欧米列強に対抗上そうしただけで、日本は真の意味での侵略国家ではないというのが、田母神論文の趣旨である。つまり、僕も万引きしたけど、B君はもっとたくさん盗んだよと主張する中学生と、その論理構造は同じである。
 こんなことで、彼のいうように、自衛隊員は国家に「誇り」をもてるのか。誇りをもつというのは、本来ポジティブな感情であるはずだ。他国ほどひどくはなかったとか、少しはいいこともしたとか、侵略はやむにやまれぬものだったとか、それらはすべて消極的な概念であり、およそ武人らしからぬネガティブな主張である。したがってそれは、誇り高い矜持の涵養よりむしろ、いじけた国粋主義に道を通じている。
 しかも田母神氏は、他国との比較考量の上で、日本は悪くなかったといっているのだが、祖国への誇りとか愛国心というものは、本来、比較の問題ではない。ただ、日本人であるということだけで根拠は十分なのだ。そもそも、父祖の行跡をあげつらうまえに、まず自らに誇りをもてる人格をつくるというのが、その根本であるべきである。それでこそ歴史というものの真の深さを知りうる。
 しかるに、擁護派・批判派を問わず、枝葉の議論ばかりで、本質論が語られないのはどういうことなのだろうか。思うに、「文民」という言葉の背後に「平和」を、「軍人」の背後には「戦争」を想定する皮相で単純な図式があるのだ。しかし、両者はともに同じ人間であり、人間の本質というものを見据えることなしには、安全保障や戦争というような、人間精神が極度に発動する現象について軽々に語るべきではないのである。

2009年1月15日木曜日

精神のレバレッジ

 昨年は、米国の土地バブルが崩壊。私の恐れていた事態が現実となった。世上では、とくに経済評論家は、中国のバブルにばかり注意を喚起し、米国の方は等閑視していた。竹中平蔵氏にいたっては、昨年八月、米国の対応は早いから、もう大きな山はこえたといっていた。九月以降はみなさん御存知のとおり、米国発の世界同時多発不況となった。
 とにかく、米国の主導する市場原理主義は終わった。と同時に、米国の一極支配も終わりを告げたのだ。通貨が多極化するということは、国際社会が多極化するということであり、日本もこれまでのような米国一辺倒では国益を損なうと考えねばならぬ。オバマ新大統領にしても、自国のことで精一杯だろう。竹中氏のような米国万歳の学者には退場を願いたいものだ。
 しかし考えようによっては、この混乱は日本が国家として自立するいいチャンスではないか。それでこそ、日米関係も正常化され、真に対等なパートナーとなりうる。というのは、じつはY氏(兄)の叱咤激励からヒントを得た。不況にへこたれている私に、こんな時だからこそ、智慧もでるし行動力もわくし、社員一丸となれると教えてくださった。ピンチはチャンスだぜ、と。
 確かに、そうだ。うまくいっている時は、とりわけ私のような怠惰な男は何も考えない。状況が悪いからこそ、何とか切り抜けようと頭をつかう。私は私自身の真価を問われているのだ。正直な話、そうはいっても、自信はぜんぜんない。が、たとえ一敗地にまみれようとも、それが掛け値のない私なのだ。それはそれで、いい。私はただ、自分のなすべきことをやりぬけばよい。人生の美とはそういうところにあるのだろう。

死刑廃止論議の偽善性

 先日、Y屋さん(兄)とF田さん(兄)と三人で話していたら、人間の性は善か悪か、という話になった。お二人は、多少ニュアンスが違っているものの、ともに性悪説を主張。さらに面白いのは、現代人は表向きは性善説を唱えながら、誰しも内心は性悪説で生きているという指摘で、私もまことに同感である。要するに、他人のうちにのみ悪をみているということである。
 光の母子殺人事件の裁判での弁護団の戦術のために、死刑是非論が話題になっているが、その背景にも、お二人のいう、ねじれた性善説があると私は感じる。
 死刑廃止論者の基本的な立場は、死刑が残虐かつ非人道的な刑罰であり、国家が法の名の下に遂行する「殺人」にほかならないという主張に帰結する。殺人には殺人をという復讐の論理は、法体系を犯罪者のレベルに貶めるというのである。
 それに対して死刑存続論者は、被害者の立場に立つ。死刑廃止論は、加害者の人権を擁護するあまり、被害者や遺族の人権は考慮しない。そういう殺人者重視・被害者軽視の立場は、いちじるしく社会正義に悖るというのが、その骨子である。
 読者の皆さんは、どちらの立場に賛成しますか? 私はどちらも納得できない。というのは、両者ともこの問題の本質を素通りしているからである。
 殺人は悪だというが、たとえば、戦争も外交の一手段であり、そういう場合には、人を殺すのも悪ではないという政治的現実主義というものが存在する。そこには、自国民の安全を守るという大義名分がある。十人の同胞が殺されるのを防ぐために、一人の敵を殺すのである。テロも革命も専守防衛も、そして死刑制度も、こうした立場に立つ思想が根底にある。
 なにも殺人にかぎらない。死刑が国家による殺人なら、警察による逮捕・収監は、国家による拉致・監禁である。つまり、死刑が非人道的とすれば、すべての刑罰は非人道的なのだ。警察官の正当防衛による射殺も立派な殺人である。政治的現実主義は、全体の最適化のためには部分の死をも是認し、国家権力による最小限の悪は許容する思想である。そしてあらゆる制度・組織というものは、法体系も会社も国家も、国連や宗教団体ですら、この思想をその本質としてもっているのである。
 ところが、いかなる理由によろうとも、人を殺してはならないとする思想も存在する。これは思想というよりも、私たちの心の中にある根源的な畏れである。この最高の倫理の下では、戦争も革命も正当防衛も死刑制度はおろか、他者に犠牲を強いるあらゆる行為が許されない。死刑制度支持者の掲げる「社会正義」も例外ではない。
 とはいえ、いったい誰にそのような高みに立った批判が許されるであろうか。死刑廃止論者はみずからの正当防衛も拒み、死を賭して無抵抗を貫く覚悟があるのか。殺人は悪だというが、人命が地球より重ければ、牛命だって地球より重いのだ。人間はあらゆるものを殺し、地球を破壊して生きている。私たちは悪を犯すことなしには、一瞬も生きることはできない。生命と秩序維持のため、直接・間接を問わず、悪に手を染めている。すなわち、私たち自身のうちに悪はあるのだ。
 私は極端な議論をしている。しかしながら、そうした徹底的なエゴイズムの否定を前提としなければ、ここで問題となっているような悪を糾弾することなどできはしないのである。それゆえ、死刑廃止論者の自己陶酔的なヒューマニズムはじつに不愉快である。それはまさしく偽善である。私たちが戦うべきは、そうした自己の内部にある悪なのではないか。
 私は死刑制度はあっていいと思う。なぜならば、みずからの死と向き合うということが、自分の犯した悪をみつめる最高の機縁となるであろうと信ずるからである。その方が、生き長らえることよりよほど大切である。