2009年1月29日木曜日

田母神論文騒動を斬る

 今日は元空幕長・田母神敏雄氏の懸賞論文の問題を論じてみよう。まず、文民統制の問題。結論からいって、自分の首をかけて発言する者を止めることはできない。それをやれば、思想統制であり言論弾圧である。我が国は全体主義国家ではない。即座に更迭された以上、文民統制はちゃんと機能しているのだ。
 にもかかわらず、文民統制への反抗だと騒いでいる人たちは、それを反戦の護符のように考えているようだが、「文民」がアテにならないのは社会保険庁をみるだけでも十分だろう。日露戦争から太平洋戦争にかけて、軍以上の主戦論を唱導したのは、いつも軍事に無知な文民だった。言葉の中身を考えずに、安っぽい正義をふりかざす。それは、いま無考えに文民統制を掲げる連中の精神性と何ら異なるものではない。内容のない言葉だけが踊っている。
 で、遅ればせながら、田母神論文を読んでみた。読後の感想は、拍子抜けの一語に尽きる。文民統制を揺るがすくらいだから、三島由紀夫ばりの憂国の檄文を私は想像していたのだ。
 細部にわたる批判や擁護が、新聞雑誌をにぎわせているが、私が問題にしたいのは、その主張の本質である。かんたんにいえば、当時は帝国主義の時代であり、欧米列強に対抗上そうしただけで、日本は真の意味での侵略国家ではないというのが、田母神論文の趣旨である。つまり、僕も万引きしたけど、B君はもっとたくさん盗んだよと主張する中学生と、その論理構造は同じである。
 こんなことで、彼のいうように、自衛隊員は国家に「誇り」をもてるのか。誇りをもつというのは、本来ポジティブな感情であるはずだ。他国ほどひどくはなかったとか、少しはいいこともしたとか、侵略はやむにやまれぬものだったとか、それらはすべて消極的な概念であり、およそ武人らしからぬネガティブな主張である。したがってそれは、誇り高い矜持の涵養よりむしろ、いじけた国粋主義に道を通じている。
 しかも田母神氏は、他国との比較考量の上で、日本は悪くなかったといっているのだが、祖国への誇りとか愛国心というものは、本来、比較の問題ではない。ただ、日本人であるということだけで根拠は十分なのだ。そもそも、父祖の行跡をあげつらうまえに、まず自らに誇りをもてる人格をつくるというのが、その根本であるべきである。それでこそ歴史というものの真の深さを知りうる。
 しかるに、擁護派・批判派を問わず、枝葉の議論ばかりで、本質論が語られないのはどういうことなのだろうか。思うに、「文民」という言葉の背後に「平和」を、「軍人」の背後には「戦争」を想定する皮相で単純な図式があるのだ。しかし、両者はともに同じ人間であり、人間の本質というものを見据えることなしには、安全保障や戦争というような、人間精神が極度に発動する現象について軽々に語るべきではないのである。

2009年1月15日木曜日

精神のレバレッジ

 昨年は、米国の土地バブルが崩壊。私の恐れていた事態が現実となった。世上では、とくに経済評論家は、中国のバブルにばかり注意を喚起し、米国の方は等閑視していた。竹中平蔵氏にいたっては、昨年八月、米国の対応は早いから、もう大きな山はこえたといっていた。九月以降はみなさん御存知のとおり、米国発の世界同時多発不況となった。
 とにかく、米国の主導する市場原理主義は終わった。と同時に、米国の一極支配も終わりを告げたのだ。通貨が多極化するということは、国際社会が多極化するということであり、日本もこれまでのような米国一辺倒では国益を損なうと考えねばならぬ。オバマ新大統領にしても、自国のことで精一杯だろう。竹中氏のような米国万歳の学者には退場を願いたいものだ。
 しかし考えようによっては、この混乱は日本が国家として自立するいいチャンスではないか。それでこそ、日米関係も正常化され、真に対等なパートナーとなりうる。というのは、じつはY氏(兄)の叱咤激励からヒントを得た。不況にへこたれている私に、こんな時だからこそ、智慧もでるし行動力もわくし、社員一丸となれると教えてくださった。ピンチはチャンスだぜ、と。
 確かに、そうだ。うまくいっている時は、とりわけ私のような怠惰な男は何も考えない。状況が悪いからこそ、何とか切り抜けようと頭をつかう。私は私自身の真価を問われているのだ。正直な話、そうはいっても、自信はぜんぜんない。が、たとえ一敗地にまみれようとも、それが掛け値のない私なのだ。それはそれで、いい。私はただ、自分のなすべきことをやりぬけばよい。人生の美とはそういうところにあるのだろう。

死刑廃止論議の偽善性

 先日、Y屋さん(兄)とF田さん(兄)と三人で話していたら、人間の性は善か悪か、という話になった。お二人は、多少ニュアンスが違っているものの、ともに性悪説を主張。さらに面白いのは、現代人は表向きは性善説を唱えながら、誰しも内心は性悪説で生きているという指摘で、私もまことに同感である。要するに、他人のうちにのみ悪をみているということである。
 光の母子殺人事件の裁判での弁護団の戦術のために、死刑是非論が話題になっているが、その背景にも、お二人のいう、ねじれた性善説があると私は感じる。
 死刑廃止論者の基本的な立場は、死刑が残虐かつ非人道的な刑罰であり、国家が法の名の下に遂行する「殺人」にほかならないという主張に帰結する。殺人には殺人をという復讐の論理は、法体系を犯罪者のレベルに貶めるというのである。
 それに対して死刑存続論者は、被害者の立場に立つ。死刑廃止論は、加害者の人権を擁護するあまり、被害者や遺族の人権は考慮しない。そういう殺人者重視・被害者軽視の立場は、いちじるしく社会正義に悖るというのが、その骨子である。
 読者の皆さんは、どちらの立場に賛成しますか? 私はどちらも納得できない。というのは、両者ともこの問題の本質を素通りしているからである。
 殺人は悪だというが、たとえば、戦争も外交の一手段であり、そういう場合には、人を殺すのも悪ではないという政治的現実主義というものが存在する。そこには、自国民の安全を守るという大義名分がある。十人の同胞が殺されるのを防ぐために、一人の敵を殺すのである。テロも革命も専守防衛も、そして死刑制度も、こうした立場に立つ思想が根底にある。
 なにも殺人にかぎらない。死刑が国家による殺人なら、警察による逮捕・収監は、国家による拉致・監禁である。つまり、死刑が非人道的とすれば、すべての刑罰は非人道的なのだ。警察官の正当防衛による射殺も立派な殺人である。政治的現実主義は、全体の最適化のためには部分の死をも是認し、国家権力による最小限の悪は許容する思想である。そしてあらゆる制度・組織というものは、法体系も会社も国家も、国連や宗教団体ですら、この思想をその本質としてもっているのである。
 ところが、いかなる理由によろうとも、人を殺してはならないとする思想も存在する。これは思想というよりも、私たちの心の中にある根源的な畏れである。この最高の倫理の下では、戦争も革命も正当防衛も死刑制度はおろか、他者に犠牲を強いるあらゆる行為が許されない。死刑制度支持者の掲げる「社会正義」も例外ではない。
 とはいえ、いったい誰にそのような高みに立った批判が許されるであろうか。死刑廃止論者はみずからの正当防衛も拒み、死を賭して無抵抗を貫く覚悟があるのか。殺人は悪だというが、人命が地球より重ければ、牛命だって地球より重いのだ。人間はあらゆるものを殺し、地球を破壊して生きている。私たちは悪を犯すことなしには、一瞬も生きることはできない。生命と秩序維持のため、直接・間接を問わず、悪に手を染めている。すなわち、私たち自身のうちに悪はあるのだ。
 私は極端な議論をしている。しかしながら、そうした徹底的なエゴイズムの否定を前提としなければ、ここで問題となっているような悪を糾弾することなどできはしないのである。それゆえ、死刑廃止論者の自己陶酔的なヒューマニズムはじつに不愉快である。それはまさしく偽善である。私たちが戦うべきは、そうした自己の内部にある悪なのではないか。
 私は死刑制度はあっていいと思う。なぜならば、みずからの死と向き合うということが、自分の犯した悪をみつめる最高の機縁となるであろうと信ずるからである。その方が、生き長らえることよりよほど大切である。