2009年4月25日土曜日

あれかこれか、それが疑問だ

 古来、二つの精神的態度がある。 ロマン主義と古典主義と、かりにいっておこう。前者は人間精神を信じ、その自由な発露を称揚する。後者は逆に、人格は厳しい教育・訓練を経てこそ完成するという態度に立つ。そして人類の歴史には、この二つの理念が交互にたちあらわれてくる。
 その意味で、市場原理主義とか「小さな政府」というのは、政治的・経済的ロマン主義といえよう。個人の利益追求の総体を、その自由な展開に任せてもなお、その都度、適切な調整が行われて、全体は結果的に最適化されるという信念が、この思想を支えている。だから、権力による規制やチェックをできるだけ排除することがもとめられる。
 しかし、今回の世界金融恐慌は明らかに、この経済的ロマン主義の過剰から帰結したものに相違ない。サブプライムローンやCDSは、個人の際限のない欲望の産み落とした悪魔の申し子である。オバマ新大統領は、施政方針演説において、経済危機は「短期的な利益を得るために規制を骨抜きにしたために起った」とのべ、金融安定化とビッグ3救済のために巨額の費用を投じると明言した。すなわち米国は、ロマン主義から古典主義へと転轍機を切換えたのだ。米国だけではない、世界各国が「大きな政府」へと政策を転換し、積極介入をすすめている。つまり、いま歴史は大きな転回をとげつつあるのだ。
 で、わが国はどうなのか。いうまでもなく、小泉改革路線がロマン派である。与党・自民党内ではそれを堅持しようとする勢力と、転換しようとする勢力が対立し、いまだにどっちつかずのあいまいな態度にとどまっている。それゆえ、集中的な経済対策を発動できず、景気浮揚は遅々として進まない。浮薄な権力闘争に淫し、歴史が見えないのである。
 それならば、民主党はどうか。小沢党首は元来、「小さな政府」をめざしてきた人である。さいきんはそれを転換しているようにも見えるが、いかにも上滑りで頼りない。それは民主党を束ねるための処世術なのかもしれぬが、その民主党自体、根本的な歴史意識の希薄は否めない。
 そもそも日本国がかかえる矛盾は、「小さな政府」をめざしたにもかかわらず、肥大化した官僚機構を温存し、実際には非効率な「大きな政府」であるというねじれ構造にある。優秀な官僚を使いこなせずに腐らせているのだ。
 したがって、来る総選挙において、各党のマニュフェストの第一に掲げられるべきは、この二つの立場のどちらをとるか明示することよりほかにない。さもなくば、われわれ国民は選択肢をあたえられないも同然である。
 少なくともいまの状況下では、強い政府のリーダーシップがもとめられている。国家の指導と介入により、迅速かつ大規模な経済対策をとるべきであり、いっぽうでは、国会と官僚機構の徹底的な再構築に即座に着手すべきなのだ。今回の危機の克服は、それなくしてはありえないし、またそのためには自らの歴史意識を更新する必要がある。各党の政治家諸氏はむろんのこと、われわれ国民もどっちつかずの態度は棄ててかかるべき時ではあるまいか。

小沢秘書逮捕の意味

 最初にことわっておくと、私は小沢支持者ではない。それどころか、しばしば彼の批判者をもって自ら任じている。しかしながら、今回ばかりは、小沢バッシングも度が過ぎるのではないかと思う。
 秘書が逮捕されたとき、私はてっきり、特捜部は贈収賄の証拠をにぎっているのだと考えていた。ところが小沢代表への事情聴取は見送られ、秘書の起訴は、政治資金規正法違反、おもに虚偽記載。そんなものは政界では日常茶飯事の「微罪」にすぎぬ。いままで逮捕された人はいないはずだ。のみならず、新聞で読むかぎり、それすら審議の余地がある。
 というのは、検察自身みとめているように、これは西松建設からの「迂回献金」であり、だとすれば、たとえ名目のみであれ、政治団体を通している以上、少なくとも企業の直接的な献金を禁じた政治資金規正法には抵触しない。いやないい方だが、マネー・ロンダリング済みということになる。
 特捜部は異例のコメントを発表。
「特定の建設業者から長年、多額の献金を受けていた事実を国民の目から覆い隠した重大事案で、看過できない」
 結局この起訴は、法律とはべつに、道義的な社会正義にもとづくといっているわけで、皮肉なことに、特捜部自身が、今回の逮捕劇における法的根拠の弱さを告白しているも同然だ。多額だから悪いという、小市民的正義感がその根底にある。が、それも口実で、民主党政権誕生を阻止して官僚機構を守るための国策捜査だという、うがった見方もできる。
 私は庶民の一人として、「巨悪を眠らせない」特捜部の活躍に期待するいっぽうで、目的のために手段はえらばぬということになれば、特捜部も巨悪に堕してしまうと危惧する。有罪か無罪かにかかわらず、起訴されたという事実は、それだけで被告に社会的制裁という結果をともなうのだ。それを承知で、社会的制裁を意識的に利用するとすれば、集団リンチないしは魔女裁判と少しもかわらぬ。だからこそ、検察による悪人の追及は、道義ではなく、あくまで法的な手続きによらねばならない。
 公平にみて、今回の特捜部の立件は、社会正義の理想を追求するあまりの勇み足に思える。大手マスコミは尻馬に乗って、特捜部のリークを鵜呑みにした小沢バッシングを展開。辞めろコールの大合唱である。社会の木鐸にしては、その機械的な無記名性はうす気味わるい。
 さて、当の小沢さんだが、私は今回の件で彼をみなおした。野党の党首でありながら、これだけの資金をあつめられるというのは特筆すべきことである。そのくらいでないと、「平成維新」など実現しはしない。実際の話、クリーンなんてものに価値はない。何かをなしとげてこその、価値である。とりわけ政治家の場合、少しくらいの悪を許容しても、それ以上の大きな寄与をすればそれでいい。残念だが、それが政治というものであり、もっといえば、人間存在そのものに根ざした矛盾がそこにある。 ただし、この場合も、選択した手段が、達成さるべき目的をこわすようなものであってはならないということである。