2009年4月25日土曜日

小沢秘書逮捕の意味

 最初にことわっておくと、私は小沢支持者ではない。それどころか、しばしば彼の批判者をもって自ら任じている。しかしながら、今回ばかりは、小沢バッシングも度が過ぎるのではないかと思う。
 秘書が逮捕されたとき、私はてっきり、特捜部は贈収賄の証拠をにぎっているのだと考えていた。ところが小沢代表への事情聴取は見送られ、秘書の起訴は、政治資金規正法違反、おもに虚偽記載。そんなものは政界では日常茶飯事の「微罪」にすぎぬ。いままで逮捕された人はいないはずだ。のみならず、新聞で読むかぎり、それすら審議の余地がある。
 というのは、検察自身みとめているように、これは西松建設からの「迂回献金」であり、だとすれば、たとえ名目のみであれ、政治団体を通している以上、少なくとも企業の直接的な献金を禁じた政治資金規正法には抵触しない。いやないい方だが、マネー・ロンダリング済みということになる。
 特捜部は異例のコメントを発表。
「特定の建設業者から長年、多額の献金を受けていた事実を国民の目から覆い隠した重大事案で、看過できない」
 結局この起訴は、法律とはべつに、道義的な社会正義にもとづくといっているわけで、皮肉なことに、特捜部自身が、今回の逮捕劇における法的根拠の弱さを告白しているも同然だ。多額だから悪いという、小市民的正義感がその根底にある。が、それも口実で、民主党政権誕生を阻止して官僚機構を守るための国策捜査だという、うがった見方もできる。
 私は庶民の一人として、「巨悪を眠らせない」特捜部の活躍に期待するいっぽうで、目的のために手段はえらばぬということになれば、特捜部も巨悪に堕してしまうと危惧する。有罪か無罪かにかかわらず、起訴されたという事実は、それだけで被告に社会的制裁という結果をともなうのだ。それを承知で、社会的制裁を意識的に利用するとすれば、集団リンチないしは魔女裁判と少しもかわらぬ。だからこそ、検察による悪人の追及は、道義ではなく、あくまで法的な手続きによらねばならない。
 公平にみて、今回の特捜部の立件は、社会正義の理想を追求するあまりの勇み足に思える。大手マスコミは尻馬に乗って、特捜部のリークを鵜呑みにした小沢バッシングを展開。辞めろコールの大合唱である。社会の木鐸にしては、その機械的な無記名性はうす気味わるい。
 さて、当の小沢さんだが、私は今回の件で彼をみなおした。野党の党首でありながら、これだけの資金をあつめられるというのは特筆すべきことである。そのくらいでないと、「平成維新」など実現しはしない。実際の話、クリーンなんてものに価値はない。何かをなしとげてこその、価値である。とりわけ政治家の場合、少しくらいの悪を許容しても、それ以上の大きな寄与をすればそれでいい。残念だが、それが政治というものであり、もっといえば、人間存在そのものに根ざした矛盾がそこにある。 ただし、この場合も、選択した手段が、達成さるべき目的をこわすようなものであってはならないということである。