2009年2月2日月曜日

若者諸君に告ぐ、蟹工船ブームとはなにか

 小林多喜二の『蟹工船』が百七十万部を超える大ベストセラーとなっている。所得格差が広がり、ワーキングプアとよばれる階層が生じ、全労働者のうちで非正規雇用者が三分の二に達した現代日本の世相を反映したものであると、どの論説者ものべている。
『蟹工船』は、カムチャッカ沖でタラバ蟹を捕獲して缶詰をつくる船の労働者たちが、国家のためという美名の下、死と隣合わせの過酷な強制労働に使役される限界状況を小説にしたものである。彼らは何人もの仲間の死を前にして、組織をつくり団体交渉にのぞむ。しかし、味方だとばかり思っていた帝国海軍の兵士に鎮圧され、「俺たちには俺たちしか味方は無い」という事実に気づく、というのがその梗概である。ネットカフェ難民の諸君は、彼らは自分たちそのものだといっているそうである。
 私も学生のときに読んだが、蕪雑な文章とイデオロギー臭に辟易したおぼえがある。たとえばカムチャッカに漂着する場面があるのだが、そこは労働者の楽園であり(しかし具体的には何も書かれていない)、しかもなぜか中国人もいる。つまりソ連と中国共産党を理想化することによって、当時の日本を批判しているのだ。これは政治プロパガンダで、文学ではないと私は評価したし、その考えはいまも変わらない。その証拠に、イデオロギーの道具として動く登場人物は、どれも生きた人間の表情をもたされてはいない。
 私は自分の政治的立場ゆえに『蟹工船』に反発したのではない。あくまでそれは文学の本道ではないと考えたからだ。私は詩人なのだ。
 おなじころ、授業でオーウェルの『動物農場』を読んだ。動物たちが団結して革命を起し、人間の支配から脱するという寓話である。しかし革命が成功すると、ナポレオンという名の豚の独裁によって、人間支配のころよりも酷い労働と恐怖政治が始まる。反対者は処刑される。いうまでもなく、ナポレオンはスターリンの戯画であり、オーウェルは当時の共産主義を理想化する風潮に抵抗しているのである。これは第一級の文学であると、私は感動した。
 スターリンや毛沢東の夥しい粛清はもはや歴史的事実として確定している。けれども私は、オーウェルの政治的な先見の明に感動したのではない。動物農場にはボクサーという馬がいる。彼は善良ではあるが愚かである。農場が自分たちのものとなり、その維持のためにナポレオンは努力している。それなのにどうして悲惨な事態になったのか、考えても彼には理解できない。結局、「我々の中にどこかいけないところがあるんだ」と思い、以前にもまして骨身を惜しまず働き、ついに力つきる。ナポレオンは入院させると称し、ボクサーを廃馬堵殺業者に売ってしまう。
 ボクサーはたしかに愚かである。しかし彼は美しい。罪を他者に転嫁せず、自分の中にみる。不平をいわず、自分の力でできることに懸命に取り組む。いったい誰がボクサーの愚かさを指弾できるであろうか。
 政治とは、簡単にいえば、全体のためには部分の犠牲を強いる論理だ。資本主義だろうと共産主義だろうと、この点ではかわらない。どちらも欠点があり長所がある。つまり政治的価値は相対的なのである。
 しかしボクサーの美しさは普遍的なものである。いかなる時代であれ、人種であれ、政治体制であれ、彼の珠玉のような精神は万人の心をうつ。そして文学とはそういう理想を表現する芸術なのである。
 私はなにも不当な労働環境を擁護するものではない。しかし諸君、現世はいつも不公平なのだ。が、どんな非道な独裁者も我々の心の中にある宝石を奪うことはできない。何よりもその宝石を大切にしてもらいたいのである。この世はけっして金と権力だけではないのだ。