2009年1月15日木曜日

死刑廃止論議の偽善性

 先日、Y屋さん(兄)とF田さん(兄)と三人で話していたら、人間の性は善か悪か、という話になった。お二人は、多少ニュアンスが違っているものの、ともに性悪説を主張。さらに面白いのは、現代人は表向きは性善説を唱えながら、誰しも内心は性悪説で生きているという指摘で、私もまことに同感である。要するに、他人のうちにのみ悪をみているということである。
 光の母子殺人事件の裁判での弁護団の戦術のために、死刑是非論が話題になっているが、その背景にも、お二人のいう、ねじれた性善説があると私は感じる。
 死刑廃止論者の基本的な立場は、死刑が残虐かつ非人道的な刑罰であり、国家が法の名の下に遂行する「殺人」にほかならないという主張に帰結する。殺人には殺人をという復讐の論理は、法体系を犯罪者のレベルに貶めるというのである。
 それに対して死刑存続論者は、被害者の立場に立つ。死刑廃止論は、加害者の人権を擁護するあまり、被害者や遺族の人権は考慮しない。そういう殺人者重視・被害者軽視の立場は、いちじるしく社会正義に悖るというのが、その骨子である。
 読者の皆さんは、どちらの立場に賛成しますか? 私はどちらも納得できない。というのは、両者ともこの問題の本質を素通りしているからである。
 殺人は悪だというが、たとえば、戦争も外交の一手段であり、そういう場合には、人を殺すのも悪ではないという政治的現実主義というものが存在する。そこには、自国民の安全を守るという大義名分がある。十人の同胞が殺されるのを防ぐために、一人の敵を殺すのである。テロも革命も専守防衛も、そして死刑制度も、こうした立場に立つ思想が根底にある。
 なにも殺人にかぎらない。死刑が国家による殺人なら、警察による逮捕・収監は、国家による拉致・監禁である。つまり、死刑が非人道的とすれば、すべての刑罰は非人道的なのだ。警察官の正当防衛による射殺も立派な殺人である。政治的現実主義は、全体の最適化のためには部分の死をも是認し、国家権力による最小限の悪は許容する思想である。そしてあらゆる制度・組織というものは、法体系も会社も国家も、国連や宗教団体ですら、この思想をその本質としてもっているのである。
 ところが、いかなる理由によろうとも、人を殺してはならないとする思想も存在する。これは思想というよりも、私たちの心の中にある根源的な畏れである。この最高の倫理の下では、戦争も革命も正当防衛も死刑制度はおろか、他者に犠牲を強いるあらゆる行為が許されない。死刑制度支持者の掲げる「社会正義」も例外ではない。
 とはいえ、いったい誰にそのような高みに立った批判が許されるであろうか。死刑廃止論者はみずからの正当防衛も拒み、死を賭して無抵抗を貫く覚悟があるのか。殺人は悪だというが、人命が地球より重ければ、牛命だって地球より重いのだ。人間はあらゆるものを殺し、地球を破壊して生きている。私たちは悪を犯すことなしには、一瞬も生きることはできない。生命と秩序維持のため、直接・間接を問わず、悪に手を染めている。すなわち、私たち自身のうちに悪はあるのだ。
 私は極端な議論をしている。しかしながら、そうした徹底的なエゴイズムの否定を前提としなければ、ここで問題となっているような悪を糾弾することなどできはしないのである。それゆえ、死刑廃止論者の自己陶酔的なヒューマニズムはじつに不愉快である。それはまさしく偽善である。私たちが戦うべきは、そうした自己の内部にある悪なのではないか。
 私は死刑制度はあっていいと思う。なぜならば、みずからの死と向き合うということが、自分の犯した悪をみつめる最高の機縁となるであろうと信ずるからである。その方が、生き長らえることよりよほど大切である。